今回は、小川未明の「赤い蝋燭と人魚」について紹介します!
「赤い蝋燭と人魚」……一見すると、なんだかロマンチックにも思えるタイトルですよね。
しかし、「赤い蝋燭と人魚」は、人間のエゴや異形のモノの怨念がたっぷりと詰まった、ホラー調な童話なのです。
蜜柑
純子
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「赤い蝋燭と人魚」のあらすじ
それではさっそく、「赤い蝋燭と人魚」のあらすじについて紹介します!
ある町の海に、身重の人魚が棲んでいました。
人魚は暗く寂しい孤独な海を嫌い、「我が子に同じ思いをさせたくない」と強く願います。
「人間は優しく慈悲深い心を持つ」と聞いていた人魚は、町の海辺にある神社まで泳ぎ、そこで我が子を産み落としました。
翌朝、神社に置き去りにされた人魚の赤ん坊は、蝋燭屋を営む老夫婦に拾われました。
子どもを持たない老夫婦にとって、人魚の赤ん坊は神様からの贈り物のように思え、たとえ人間の子どもではなくても、大事に育てようと彼らは誓いました。
やがて美しく成長した人魚の娘は、育ててくれた老夫婦に恩返しをしようと、売り物の蝋燭に赤い絵の具で絵を描き始めます。
絵の描かれた蝋燭を神社に納め、その燃えかすを持って漁に出ると、どんな荒天でも怪我一つなく無事に帰ってこられるとして、たちまち評判となりました。
ある時、その噂を聞きつけた香具師が老夫婦の元を訪れました。
娘が人魚であることをどこからか聞きつけた香具師は、人魚を見世物にするため売ってほしいと老夫婦に頼みます。
はじめこそ耳を貸さなかった老夫婦でしたが、香具師の「人魚は不吉なモノだ、このまま手元に置いておくといずれ災いが訪れる」という口車に乗せられ、多額の金も相まって、ついに娘を手放す決意をします。
娘は見世物として売られることを嘆き悲しみ、どうかこのまま家に置いてほしいと老夫婦に懇願しますが、老夫婦は娘の意見を聞こうともしません。
娘は香具師に引き渡される直前までせっせと蝋燭に絵を描き続けましたが、そこに香具師がやって来ます。
老夫婦に急かされた娘は途中で絵を描くのを中断せねばならず、二、三本の蝋燭は赤く塗りつぶしてしまいました。
娘が香具師に連れて行かれた晩、蝋燭を買いにある女が訪ねてきました。
女は、娘が最後に塗った赤い蝋燭を選ぶと銭を払い帰っていきましたが、その銭は灯りの下でよく見ると、貝がらなのでした。
その直後、先ほどまで穏やかだった月夜は一瞬にして大嵐に変わり、いくつもの船が難破してしまいます。
それ以来、赤い蝋燭は不吉の象徴だとされ、罰が当たったのだと恐れた老夫婦は蝋燭屋を畳みましたが、神社には毎日のように赤い蝋燭の火が揺らめくのでした。
やがて数年も経たないうちに、その町は滅びてしまいました。
ここまでが、「赤い蝋燭と人魚」のあらすじです。
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それではここから、「赤い蝋燭と人魚」の見どころについてじっくり見ていきましょう!
「赤い蝋燭と人魚」の見どころ
「赤い蝋燭と人魚」の見どころは、やはりなんといっても「人魚」の純粋な気持ちと「人間」のエゴイズムが克明に対比されているところでしょう。
物語の冒頭に登場する人魚の母親は、身ごもっている我が子に対して以下のような想いを抱えていました。
私達は、もう長い間、この淋しい、話をするものもない、北の青い海の中で暮らして来たのだから、もはや、明るい、賑やかな国は望まないけれど、これから産れる子供に、こんな悲しい、頼りない思いをせめてもさせたくないものだ。
子供から別れて、独りさびしく海の中に暮らすということは、この上もない悲しいことだけれど、子供が何処にいても、仕合せに暮らしてくれたなら、私の喜びは、それにましたことはない。
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人間は、この世界の中で一番やさしいものだと聞いている。そして可哀そうな者や頼りない者は決していじめたり、苦しめたりすることはないと聞いている。一旦手附けたなら、決して、それを捨てないとも聞いている。幸い、私達は、みんなよく顔が人間に似ているばかりでなく、胴から上は全部人間そのままなのであるから――魚や獣物の世界でさえ、暮らされるところを見れば――その世界で暮らされないことはない。一度、人間が手に取り上げて育ててくれたら、決して無慈悲に捨てることもあるまいと思われる。
先の展開を知っていると、フラグにしか思えない文章ですね……。
ただひすたらに子どものためを想って行動した母の愛が、まさか「やさしい」はずの人間に裏切られることになるとは、この時の彼女は思ってもみなかったでしょう。
さて、翌朝になると、神社に置き去りにされていた人魚の娘を、老夫婦のおばあさんが発見しますよね。
ここでなぜおばあさんが神社にいたかというと、神様にお礼を言いに行くためだったのです。
「私達がこうして、暮らしているのもみんな神様のお蔭だ。このお山にお宮がなかったら、蝋燭が売れない。私共は有がたいと思わなければなりません。そう思ったついでに、お山へ上ってお詣りをして来ます」
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「ほんとうに、お前の言うとおりだ。私も毎日、神様を有がたいと心でお礼を申さない日はないが、つい用事にかまけて、たびたびお山へお詣りに行きもしない。いいところへ気が付きなされた。私の分もよくお礼を申して来ておくれ」と、お爺さんは答えました。
そうしてお参りに行ったおばあさんが、帰りに見つけたのが置き去りにされていた人魚の娘だったのです。
人魚の娘を発見した時、おばあさんはこう思いました。
「可哀そうに捨児だが、誰がこんな処に捨てたのだろう。それにしても不思議なことは、おまいりの帰りに私の眼に止まるというのは何かの縁だろう。このままに見捨てて行っては神様の罰が当る。きっと神様が私達夫婦に子供のないのを知って、お授けになったのだから帰ってお爺さんと相談をして育てましょう」
こうして無事に老夫婦のもとへ拾われた人魚の娘は、数年をかけて美しい女性へと成長を遂げます。
自分を大切に育ててくれた老夫婦に恩返しがしたいと思った娘は、「蝋燭に綺麗な絵を描けばもっとみんなが買ってくれるんじゃないか」と考え、白い蝋燭に赤い絵の具で魚や貝、海草の絵を描きました。
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見世物小屋を営む香具師にとって、異形である人魚は恰好の商売道具になりますよね。
人魚の娘を売ってほしいと頼む香具師に対して、老夫婦は最初こそ拒否しますが……。
香具師は一度、二度断られてもこりずに、またやって来ました。そして年より夫婦に向って、「昔から人魚は、不吉なものとしてある。今のうちに手許から離さないと、きっと悪いことがある」と、誠しやかに申したのであります。
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まだ赤ん坊だった娘を神社で見つけた時には、「このままに見捨てて行っては神様の罰が当る」と思ったおばあさんも、この頃にはすっかりそんなことは忘れてしまっていたのでしょうね……。
この時、老夫婦は神様や自分たちの商売を手伝ってくれた娘への「恩」や「感謝」を失念して、目先の「欲望」に飛びついてしまったのです。
この話を娘が知った時どんなに驚いたでありましょう。内気な、やさしい娘は、この家を離れて幾百里も遠い知らない熱い南の国に行くことを怖れました。そして、泣いて、年より夫婦に願ったのであります。
「妾は、どんなにも働きますから、どうぞ知らない南の国へ売られて行くことを許して下さいまし」と、言いました。
しかし、もはや、鬼のような心持になってしまった年より夫婦は何といっても娘の言うことを聞き入れませんでした。
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娘は、それとも知らずに、下を向いて絵を描いていました。其処へ、お爺さんとお婆さんとが入って来て、「さあ、お前は行くのだ」と、言って連れ出そうとしました。
娘は、手に持っている蝋燭に、せき立てられるので絵を描くことが出来ずに、それをみんな赤く塗ってしまいました。
娘は、赤い蝋燭を自分の悲しい思い出の記念(かたみ)に、二三本残して行ってしまったのです。
本当は絵が描きたかったけれど、老夫婦に急かされ、最後の二、三本はただ赤く塗ることしかできなかった娘。
娘は最後にその赤い蝋燭を数本、部屋に残して去っていきます。
本文では、「自分の悲しい思い出のかたみ」として蝋燭を残していった、とありますが……。
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結局、娘を売り飛ばして老夫婦は大金を得ましたが、その晩の女の来訪をきっかけに、町はまるで呪いをかけられたかのような状態に陥り、やがては町そのものが滅んでしまいました。
「赤い蝋燭と人魚」の教訓は、簡単に言ってしまえば「欲に目を眩ますことなく、人の思いやりや信頼を裏切るな」というところになるでしょうか。
よくある話だと感じる方もいらっしゃるかと思いますが、でも実は老夫婦に訪れたような選択やシチュエーションって、私たちの身近にもあるかもしれませんよね。
その時に、自分だったら一体、周囲の信頼と目先の欲望、どちらを取るだろう?なんて、つい考えさせられてしまいます。
「赤い蝋燭と人魚」のココがエモい!
「赤い蝋燭と人魚」のエモポイントは、母の娘を想う純粋な愛情です!
物語の冒頭にしか登場しない……と思いがちな母ですが、実はラストに再登場しているのですよね。
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その時、お婆さんはびっくりしました。女の長い黒い頭髪がびっしょりと水に濡れて月の光に輝いていたからであります。
そう、蝋燭を買いに来た女性の髪は、なぜかびっしょりと水に濡れていました。
その日の夜は「ほんとうに穏かな晩」であったという描写があり、雨は降っていなかったため、なぜ女性の髪が濡れていたのか、おばあさんには分かりません。
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女は箱の中から、真赤な蝋燭を取り上げました。そして、じっとそれに見入っていましたが、やがて銭を払ってその赤い蝋燭を持って帰って行きました。
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その蝋燭を見て、人魚の母は何を感じ、何を思ったでしょうか。
娘の悲しみ、娘の健気さ。
「やさしい」と聞いていた人間が、実は利己的な生き物だったことへのショック。
そんな人間の元へ、みすみす送り出してしまった自分の浅はかさ。
人間への怒り、悔しさ、そして娘への罪悪感……。
そのすべてがぐちゃぐちゃに絡まり合った結果が、この後の場面で訪れる「大暴風雨」となって表れているのかもしれません。
本当にやりきれないお話ではありますが、実は最後に、ちょっとした「救い」があるのではないかな、と感じる要素もあります。
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母の荒れ狂う心がそのまま投影されたかのような「大暴風雨」は、「ちょうど香具師が、娘を檻の中に入れて、船に乗せて南の方の国へ行く途中で沖合にあった頃」だったといいます。
「この大暴風雨では、とてもあの船は助かるまい」と、お爺さんと、お婆さんは、ふるふると震えながら話をしていました。
夜が明けると沖は真暗で物凄い景色でありました。その夜、難船をした船は、数えきれない程でありました。
いくつもの船が難破してしまったほどの「大暴風雨」。
特に描写はありませんが、老夫婦が「この大暴風雨では、とてもあの船は助かるまい」と思ったことから、香具師の船も難破し、香具師自身が亡くなったということが考えられます。
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本文で描写されているわけではないので、あくまで想像の域を出ませんが……。
母の起こしたあの「大暴風雨」が、娘を奪還するための手段だったとしたら……。
もし本当に、人魚の親子が海で再会していたのだとしたら……。
この救いのないお話の中で、唯一、人魚の親子だけは浮かばれてほしいな、と願わずにはいられないのでした。
まとめ
以上、小川未明の「赤い蝋燭と人魚」についての紹介でした!
「赤い蝋燭と人魚」は絵本にもなっていて、文章だけで読むとおどろおどろしい雰囲気もありますが、絵本で読むとまた人魚の切なさや物悲しさが伝わってくるので、そちらもとてもおすすめです!
気になった方はぜひチェックしてみてくださいねー!
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