今回は、有名な詩人・谷川俊太郎さんの「きみ」という詩について紹介します!
谷川俊太郎さんの作品は、小学校、中学校、高校などの国語や道徳の授業で触れてきた方も多いのではないでしょうか。
蜜柑
純子
「きみ」ってどんな詩?
それではさっそく、「きみ」の本文を見てみましょう!
こちらです。
きみはぼくのとなりでねむっている
しゃつがめくれておへそがみえている
ねむってるのではなくてしんでるのだったら
どんなにうれしいだろう
きみはもうじぶんのことしかかんがえていないめで
じっとぼくをみつめることもないし
ぼくのきらいなあべといっしょに
かわへおよぎにいくこともないのだ
きみがそばへくるときみのにおいがして
ぼくはむねがどきどきしてくる
ゆうべゆめのなかでぼくときみは
ふたりっきりでせんそうにいった
おかあさんのこともおとうさんのことも
がっこうのこともわすれていた
ふたりとももうしぬのだとおもった
しんだきみといつまでもいきようとおもった
きみとともだちになんかなりたくない
ぼくはただきみがすきなだけだ
いかがでしょう。
最初から最後まで、全文がひらがなで書かれた詩で、語り手の少年のあどけなさや、真っすぐな気持ちが痛いほど伝わってきますね。
蜜柑
純子
そう、「きみ」は、まだ幼い小学生の少年が、友達の男の子を想っている様子を描いた詩なのです!
「きみ」のココがエモい!
「きみ」のエモポイントはもちろん、なんといっても「ぼく」から「きみ」に向けられる、ひたむきで純粋すぎる愛情です!
まず注目したいのが、3、4行目の「ねむってるのではなくてしんでるのだったら どんなにうれしいだろう」という一文ですね。
蜜柑
純子
蜜柑
純子
蜜柑
恋愛というのは、特に片想いの時分は、良くも悪くも相手に振り回されてしまいますよね。
相手の何気ない一言や行動で、天にも昇るほど嬉しくなったり、かと思えば、地獄に落とされるほどの絶望を味わったり……。
自分の幸不幸が相手に依存してしまう状態になると、次第に心がすり減り、やがては好きなはずの相手に対して、「あの人がいると気持ちが疲れちゃうな。いっそ消えてくれたらいいのにな」とまで思うようになってしまう……。
身に覚えのある方も多いかもしれませんね。
「ぼく」も、片想いをしている「きみ」に、さんざん心を振り回されてきたからこそ、「きみ」が眠っているのではなく死んでいるのだとしたら、本当に嬉しいと言っているのでしょう。
だって、もし死んでいるのだとしたら、もう「ぼく」に対して無関心な目を向けてくることもなくなるし、「ぼく」の嫌いなあべと2人で出かけたりすることもなくなるのですから……。
蜜柑
純子
蜜柑
純子
「ぼく」は「きみ」の匂いを感じるだけで胸がドキドキしてしまうほど、「きみ」のことを強く思っているのですね。
詩の後半では、夢の中で「ぼく」と「きみ」がともに戦争に行ったという描写がされています。
ここでグッとくるのが、「おかあさんのこともおとうさんのことも がっこうのこともわすれていた」という一文ですね……。
お母さんもいなくて、お父さんもいなくて、学校もなくて……というシチュエーションは多分、潜在的に「ぼく」が心の底から望んでいる状況なのではないでしょうか。
恋をする「ぼく」の世界には、きっと両親も学校も社会もなくて、ただ好きな「きみ」がいるばかりなのでしょう。
「ふたりとももうしぬのだとおもった」という悲劇的な最期を予期しつつも、「しんだきみといつまでもいきようとおもった」と語る「ぼく」。
蜜柑
純子
ラストの二文は、「きみ」という詩の最後を飾るにふさわしすぎる言葉が綴られています。
きみとともだちになんかなりたくない
ぼくはただきみがすきなだけだ
私は初めてこの文章を読んだ時、もう息が止まるかと思いましたね……。
「きみとともだちになんかなりたくない」という、一見するとネガティブな言葉を、こんなにも切なく辛い気持ちから捻出されているさまを初めて見ました……。
最後の、「ぼくはただきみがすきなだけだ」という言葉が、あんまり真っすぐで、ひたむきで、素直で……読んでいるだけで涙がこみ上げそうになります。
同性の友達を好きになって、でもその想いを伝えきれないでいて……。
もどかしくも美しい少年の愛の形が非常にリアルに描かれており、何度読んでも心に波紋を広げられる作品です。
純子
蜜柑
まとめ
以上、谷川俊太郎さんの「きみ」という詩についての紹介でした!
人生の中で、誰かを好きになった経験が一度でもあれば、きっとみんな「ぼく」に共感してしまうことでしょう。
谷川俊太郎さんの作品は、このように心の奥の一番柔らかいところに響いてくる詩が多いので、機会があればまた紹介させていただこうかと思います!
純子
蜜柑