今回は、かの有名な文豪・夏目漱石の「夢十夜」に収録されている一篇、第三夜について紹介します!
以前、第一夜について紹介したこともありましたが、第三夜は第一夜とはまったく異なり、奇妙で不気味な気配の漂うお話になっています。
純子
蜜柑
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「夢十夜」第三夜のあらすじ
それではさっそく、第三夜のあらすじについて見ていきましょう!
ちなみに、第三夜も「夢十夜」ではおなじみの、「こんな夢を見た」という書き出しから始まるお話になっていますよ。
あらすじ
語り手である「自分」は、六つの子供を背負い、田圃道を歩いている。
子供は確かに自分の子で、しかも盲目だった。
目が見えないはずなのに、その子供は妙に大人びた口調で、周囲の状況を次々と言い当てていく。
そんな子供に得も言われぬ不気味さを覚えた「自分」は、近くにあった大きな森に子供を捨て去ろうと考えた。
周囲の状況だけでなく、語り手である「自分」の考えていることまで的確に言い当てていく子供に、「自分」の恐怖心は限界を迎えそうになる。
そんな時、森の中にあった一本の杉の木へ通りかかると、子供は「御父さん、その杉の根の処だったね」と言った。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
その言葉を聞いた途端、「自分」は今から百年前の晩に、この杉の根で一人の盲目を殺めたという事実を思い出した。
自身が人殺しであったことを自覚した途端、背中の子供が急に重たくなった。
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それではここから、「夢十夜」第三夜の見どころについてじっくり解説していきます!
「夢十夜」第三夜の見どころは?
「夢十夜」第三夜の見どころは、奇妙な子供に翻弄される「自分」の焦燥感です!
まず、実際にこの子供がどのように奇妙なのかというところを、実際の本文を引用しつつ紹介しますね。
六つになる子供を負ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰れて、青坊主になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。
親である「自分」の問いかけに、子供は「なに昔からさ」と返答します。
口ぶりが明らかに子供のものではありませんし、まだ6年しか生きていない子供が「昔から」などと言うのにも違和感を覚えますよね。
このように第三夜では、物語の冒頭から子供の異常さが際立って描かれています。
純子
「田圃へかかったね」と背中で云った。
「どうして解る」と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって鷺が鳴くじゃないか」と答えた。
すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。
ただでさえ妙に大人びていて不思議な子供なのに、このうえ予知めいたことまでし始めたらもう普通の人は若干パニックになってしまいますよね……。
語り手である「自分」も、以下のように独白しています。
自分は我子ながら少し怖くなった。こんなものを背負っていては、この先どうなるか分らない。
蜜柑
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どこか打遣ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考え出す途端に、背中で、
「ふふん」と云う声がした。
「何を笑うんだ」
子供は返事をしなかった。ただ
「御父さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると
「今に重くなるよ」と云った。
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その後、自分は森を目指して歩きますが、進む道についてはなぜか子供に「命令」されてしまいます。
子供は相変わらず、周りの景色や道について、とても詳しい素振りを見せるんですね。
読み手としては、「なぜ盲目なのに周りのことが分かるんだろう?」と疑問に思うところですが、語り手である「自分」も同様のことを考えます。
すると、子供がこんなことを言いました。
「どうも盲目は不自由でいけないね」と云った。
「だから負ぶってやるからいいじゃないか」
「負ぶって貰ってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」
子供はここでも、「自分」の心を容赦なく読んでくるのです。
蜜柑
純子
いよいよ子供への恐怖心が高まってきた「自分」は、早く子供を捨ててしまおうと足早に道を急ぎます。
ここからの文章が個人的にとても好きなので、以下に引用させていただきますね。
何だか厭になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」と背中で独言のように云っている。
「何が」と際どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲けるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども判然とは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。
雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩もらさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。
物語の始まりから終わりまで、全体的に「自分」の焦りが常に前面に出ている第三夜ですが、ここの箇所はそれが特に顕著になっていますね。
短い一文を矢継ぎ早に重ねることで、文章全体に疾走感が生まれています。
「早くこの不気味な子供を捨ててしまいたい」という「自分」の焦燥感が、読んでいるこちらにまで伝わってくるかのようで、心臓がバクバクするような、手に汗握るような、奇妙なざわつきを追体験できる名場面だと個人的に思います。
純子
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。
これまで子供が何かを言ってもただ不気味そうにする「自分」でしたが、ラストのこの場面では、子供の言葉に対して「うん、そうだ」と「思わず答えて」しまいました。
自分でも把握しきれない、輪郭のぼんやりとした事柄が、子供の言葉を以て徐々に明確になっていくシーンで、読んでいていつも鳥肌が立ってしまいます……。
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物語の冒頭からずっと子供の奇妙さに翻弄されていた「自分」と読者は、最後の「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」というセリフに触れて、初めてこれまでの子供の言動に合点がいきます。
百年前の記憶を持つ子供にとっては、周囲の状況を言い当てたり、道を誘導したりすることはさぞ容易かったでしょう。
「夢十夜」第三夜はこのように、伏線の張り方や回収の仕方が実に不気味で華麗だなと、読むたび漱石の表現技法について感嘆させられてしまいます。
「夢十夜」第三夜のココがエモい!
「夢十夜」第三夜でエモい、というか考えさせられるなと思ったポイントは、ラストで子供が急に重たくなるところです!
おれは人殺しであったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。
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「自分」が百年前に殺人を犯したと自覚しただけで、なぜ背中の子供が急に重たくなったのか?
それは、「自分」が人殺しであったことを思い出し、自覚したことで、罪の意識が重たくのしかかってきたからだと考えられます。
つまり、「子供の重さ=罪の重さ」である、ともいえますね。
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「御父さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると
「今に重くなるよ」と云った。
「今に重くなるよ」……。
第三夜の真相をすべて知ったうえでこの言葉を読むと、まるで「今にお前は自分の罪の重さを思い出すよ」と言っているようにも感じられますよね。
「背中の子供」という要素を使って、「自分」に罪の重さを体感させるという秀逸な技法、さすが漱石だなと舌を巻いてしまいます。
罪を自覚し、子供が途端に重くなった後、一体「自分」はどうなったのか……。
本文では描かれなかった「自分」のその後を想像すると、無性に後味の悪さを覚えますが、そういったところも含めて「夢十夜」第三夜の魅力だなと感じます。
まとめ
以上、夏目漱石の「夢十夜」第三夜の紹介でした!
第三夜は一度最後まで読んでみた後、子供の正体を知ったうえでもう一度頭から読み直すと、子供の言動にいちいち納得して「そういうことだったのか!」と得心すること間違いなしです。
当ブログは「夢十夜」第三夜の他に、第一夜の紹介もしておりますので、こちらもよろしければぜひご覧になってみてくださいねー!
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